松井秀樹日記
成年後見6-成年後見法世界会議
10月2日から4日までの三日間、パシフィコ横浜で、わが国初の成年後見法世界会議が開催されました。
私も受講者として参加しました。
参加国はドイツ・イギリス・オランダ・アメリカ・カナダ・オランダ・オーストラリア・韓国・台湾・
シンガポール・サモア・日本であったと記憶します。
この会議では成年後見に関するあらゆる論点が議論されたということです。
分科会は8つ開催され、私は「医療同意」と「後見人への公的支援組織」に参加しました。
医療同意の分科会でとても印象的だったのは、ドイツでは、後見人に医療同意
に関する権限を認めているようですが、重大な医療行為については、後見人は
裁判所に同意していいかどうかについての許可を申し立てることができ、この
裁判所の関与の真の目的は、後見人を守るためだということでした。
つまり、重大な医療行為に同意した後見人の判断が間違っていたとして
争いになった際に、その判断に裁判所がおすみつきを与えたことで
後見人に損害が及ばないようにするためだということでした。
さすが、ドイツだと思った次第です。
成年後見5-「傾聴」
2010.9.30 雨 ふりやまず。
以前、数ヶ月間にわたり「末期癌」や「ホスピス」や「終末期医療」関係の本を自宅の
ある横須賀市の中央図書館から借り受け、通勤電車の中で読んでいました。
かれこれ10冊は読み終えたように思います。
後見業務を仕事の一つとしている以上、被後見人である「他人の死」については
日常の仕事の上においても関心があるのは当然ですが、この仕事をやって
いるうちにいつかは余命何年、あるいは何か月かを告知された人と仕事上でかかわりをも
つことは十分過ぎるほどある得ることです。現に私の友人である複数の司法書士からホ
スピスの問題にぶちあたった例を聞いています。しかし、他人様のことよりも「自分の死」
にいつかは臨まなければならないのが自然の摂理、永遠不滅の真理なのですから、
これらの本をいまから読んでおくことも決して無駄ではないとも思っています。
さて、これらの本を読みあさるうちに私の知らなかった知識を得ることも多く、たとえば現在の
終末期医療ではモルヒネなどの使用で末期癌患者がこれまで苦しまなければならなかった
激しい疼痛の9割を抑えることが可能であるといいます。このことにはほっとします。また平
然と死に赴く人の多くは「死が終りでない」という宗教的確信をもっている人だといいます。
ここで思い出すのは19世紀の哲学者ショーペンハウエルが記した言葉です。たしか「動物
は死を目の前にして初めて死を知るが、人間は死のずっと手前で自分の死を考える。ここ
から宗教も哲学も文学も発生した」といったような内容の文章を残していたと記憶していま
すが、現代人には自分の死後も存続する命があるといういわば宗教的確信をもっている人
が少ない以上、死に方は難しくなったと考えてみたりします。
「スピリチュアル・ペイン」という言葉もあるそうです。これを日本語にしいて訳すと「霊的な痛
み」となるのでしょうが、「自分の存在がなくなることと、生きる意味の消失に伴う苦しみ」とい
ったある種の究極の苦しみを多くの末期癌患者が通過するといいます。
ところであるホスピス医の記すところによると、人が余命何か月かの宣告を受け、その方と
医者として対することになった場合、なぐさめの言葉をかけることはなく、ただただその方の
魂の痛みを聴くことに専念するのだそうです。その方の絶望の声に耳を傾ける、つまり「傾聴」
する姿勢をとるのだといいます。いや正確に言うと「傾聴するしかない」のだといいます。
では何故傾聴するしかないかというと、ホスピス医にしても、この世に生きているすべての人
にしても、いまだ自分の死を経験したことがないのですから、死後のことは正確には誰にもわ
からないということになり、そのことを知っている以上、ただ死に臨む人の苦しみの言葉に耳
を傾けるしか、やれることはないという理由だそうです。しかし絶望の言葉を吐く人もいつかは
そこを通過し、次には死の受容が始まるともいいます。この絶望から死の受容へ移行するプロ
セスは、たしかキューブラー・ロスも記していたように思えますが、ロスの本は10数年前に読ん
だため記憶が定かではありません。
私はこの「傾聴」ということを知り、ふと思うことがありました。私がいま任意代理をしている方で、
絶望の中にいる方との1ヶ月に一度の面談の際(これは私にとっても重く苦しい面談ではありま
すが)、それまでなぐさめや励ましの言葉をかけていたのを止めることにしました。私はただただ
その方の苦しみの言葉を「傾聴」する姿勢をとったのでした。
するとほんの少し変化が生じました。その方の表情がこころなしか明るくなったように私には思え
たのでした。確かにそう思えたのでした。
これは何故なのだろうかと、愚鈍な私は、誠実に考えつづけているのです。
成年後見4 「愚行権」
2010年9月28日pm5:35
少し、仕事の手をやすめ、我が愚行のブログを書いています。
成年後見の分野でよく語られる言葉に「愚行権」というものがあります。
「愚行的選択権」とも「浅はかな行為を行う自由」ともいわれています。
つまり、人間は他人に迷惑をかけない以上、人が愚行と思うものであってもやっていいのだ
という意味です。私はこの言葉にある種、さわやかな風のような、自由な何ものかを感じています。
なぜ、この言葉が成年後見の分野で言われているのかというと、後見人というのは
被後見人本人の行為を風紀委員のように監視したりするものではないということを伝えるためです。
なお、「後見人は風紀委員ではない」という言葉は、筑波大学の上山教授の名言です。
みなさん、判断能力が通常より低下していたとしても、人間の行いは、自由なのです。
ただ後見人としては、本人のその行為が他人に迷惑をかけたり、本人の生活がそれによって崩壊してしまう
ようであるならば、それは止めましょうという役割はありますが。
金曜の夜には
さて、今日の午後6時5分から、白金高輪の明治学院大学1101号教室にて一般公開の成年後見制度実務がはじまります。賽は投げられたというか、もうあともどりはできません。
今日の昼も講義の資料の読み込みです。今年は200名弱の受講生とか。第1回目の講義は
「実務家から見た成年後見制度」です。私の経験をもとに制度全体を概観し、主な問題点も
受講者に提示します。
講義は7時35分に終わります。質問や後片付けをし、大学を出て品川駅に着くのが8時20分ごろ。それから京浜急行の快速に乗車し、途中一度乗り換え、馬堀海岸駅まで。
駅前のスーパーで手ごろなワインを買い、海の見える自宅に10時近くにやった帰宅し、妻のつくってくれたおかずでワインを一人飲み始めます。質素ですが、気分は豪華な晩餐です。
金曜の夜は、私だけのワインの夜です。今年もこのようにワインを飲めることに感謝です。
文学好きの私は、今夜は、明治学院の卒業生、島崎藤村の「千曲川のスケッチ」か「夜明け前」でも読んで、眠りにつこうかしら。
「市民後見人」の名付け親
昨日のブログで「市民後見人」について少し触れました。
この市民後見人とは、「第三の後見人」ともいわれている方々です。
新成年後見制度が2000年4月に施行されて以来、親族が後見人に選任された割合は
年々低下傾向にあり昨年は全体の63.5%までになりました。
ちなみに旧法時代の1999年度は95%以上が親族の方が後見人に選任されていたといいます。
親族以外の方を後見人に多く選任することを、「後見の社会化」ともよんでいます。
これまで第三者として後見人に選任されていた司法書士・弁護士・社会福祉士等を
「専門職後見人」と呼び、成年後見制度の支え役の一翼を担ってきていましたが、
地域によってはこの数が後見の需要に追いつかなくなる状態が出現するようになりました。
そこで登場したのが「市民後見人」です。会社を退職した方などが地域社会に貢献したいとして
長時間に及ぶ研修を経たのち、家庭裁判所より後見人として選任されはじめました。
まだその数は少ないのですが近い将来には全国各地で登用されると予想しています。
では、この「市民後見人」という、そのものズバリの名前を考え出した方は誰なのでしょうか?
新しい制度が普及していくためには、その本質を表現し、シンプルであり、かつ、かっこいいネーミングが
必要です。じつはこのことを書きたくて今日のブログを書いています。
たしか今から5年ほど前だったと記憶します。
私の敬愛する先輩司法書士・埼玉の大貫正男氏がある夕方、そろそろビールを
飲みたくなったなァと思いつつ仕事をしていた私に電話をくれました。
「松井さん、第三の後見人の話なんだけど、じつはいい名前を思いついた。感想を聞かせてくれ」
「へえ~、どんな名前ですか?」
大貫さんは一呼吸おいて、厳粛に言われました。
「市民後見人」
私は感動のあまり口走っていました。
「これはいけます! ドンピシャです! これはヒット作になります!」
大貫さん以外の人間に「市民後見人」が、史上初めて認知された瞬間でした。